その2【作品編】

日本人によるハープの楽曲について

ハープは吟遊詩人の竪琴と同じで、様々な場面で声楽の伴奏に用いられて来ました。日本でも同様で、昔から演奏を行う時に、簡単な編曲や伴奏のためにハープが利用されていたと思われます。これらの伴奏や編曲を除き、文献に現れる日本人作曲家による最も初期の本格的ハープ作品は、1935年に露木次男により作曲されたハープトリオ作品3と思われます。初演は同年5月、丸の内帝国鉄道協会講堂にて行われた近代日本作曲連盟第一回オーディション、または銀座日本楽器会社五月例会と考えられます。もっともこのときはハープを諸井三郎氏のピアノにて代用しています。この曲はフリュート、バイオリン、ハープのためのソナタ(イ短調)として、1936年国際現代音楽協会音楽祭への出品作品に決定し同年11月中旬に巴里の同音楽祭委員会宛に送付されています。しかし何らかの事故があり、期日までに事務局へ届かなかったそうです。1939年2月15日、日本現作曲家連盟第8回作品発表会(於:東京電気倶楽部)において演奏予定でしたが、発表中止。残された文書から、演奏者側の理由であったことが推測されています。その後、この作品の演奏記録が見当たらないため、未だ指定どおりの楽器を用いて演奏されていない可能性があります。

1938年には渡辺ハープ楽団により成田為三作曲「ハープ四重奏曲」が演奏されています。これはJOAKの土曜コンサートというプログラムで、演奏者は、フルートは山口(新交響楽団で宮田清蔵とコンビを組んでいた山口正男と思われます)、バイオリン大塚、チェロ岸峰と記録にあります。成田為三(明治26年(1893年)12月15日-昭和20年(1945年)10月29日)は、秋田県出身の作曲家で、有名な「浜辺の歌」の作曲者です。幼少のころからバイオリンに親しみ、東京音楽大学を卒業後小学校教師の傍ら作曲活動を行っていました。1944年に空襲にて自宅が罹災し、現在知られている歌曲のほかに、作品のほとんどが火災で失われてしまいました。このハープ四重奏曲も詳細はわかっていません。