その1【演奏家編】
グランドハープが最初に日本人の目に触れたのはいつか、明確な記録は残っていません。竪琴と称される小型のハープは、鎖国時代でも西洋文明と共に何らかの形で国内に持ち込まれていたと思われます。豊臣秀吉が聚落第においてハープを含めた天正使節の合奏を聞いた記録が残っています。しかしグランドハープとなると、その大きさから手軽に持ち運べるものではなく、明治時代以降にプロの演奏家が演奏目的に日本に持ち込んだものが最初と考えられます。日本人がハープを弾くことを職業にしたのはオーケストラ運動が盛んになった大正時代以降で、それ以降多彩な発展を見せました。今回は最初期から戦前まで、文献資料に現れる人物を中心に、日本におけるハープの受容を紹介します。
1. 明治時代
1) ステファン・マーシュ
日本でもっとも最初にハープを弾いた人物のひとりはオーストラリア人ステファン・マーシュでした。彼は高名なハーピストであったボクサの弟子であり、優れた演奏家でもありました。1873年(明治6年)横浜ゲーテ座で行われた演奏会は好評を博しています。
明治時代では、1894年東京弥生館で行われた義勇報告音楽会で、四竈富士子(詳細不明)がハープを弾いたとの記録があります。1895年前橋市では上毛孤児院寄付金募集慈善音楽会にてミセス・バットン(詳細不明)が演奏会を催し、その珍しさから集客に成功した記録が残っています。バットン夫人は1903年にも京都で慈善演奏会を開催しています。曲目はホームスイートホームでした。当時、日本に滞在した宣教師がハープを持ち弾奏していたと言われています。これらのハープがグランドハープであるか否かは不明ですが、比較的運搬の容易であったアイリッシュハープのようなものではないでしょうか。1897年には帝国陸軍軍楽隊が東京本郷中央会堂にて「オートハープ」の独奏を行っています。オートハープは決まったコードをワンタッチで演奏できる小型のハープで、チターに近いものです。東京本郷中央会堂は本郷三丁目の交差点に近い春日通りに面するキリスト教会のことで、現在の建物は関東大震災後の再建物です。当時からパイプオルガンによる演奏会が開かれ、瀧廉太郎もこのオルガンを弾いた事があるそうです。教会ですので、音響的にオートハープの独奏には適していたと思われます。
2. 大正以降
大正時代になると、第一次世界大戦後に世界の工場として貿易が加速し、空前の好景気となり、近代化が進みました。都市を中心に親しみやすさや教養を含んだ、いわゆる大衆文化が広がり、ラジオ放送や新聞業界の発展など、現在のマスコミュニケーションの萌芽が見られた時代でした。日本人は、カフェや洋食など、外来の文化を日本的変容を施しながらも積極的に吸収しました。西洋楽器を用いたオーケストラ音楽、いわゆる洋楽もそのひとつでした。そのなかで職業演奏者としてのハーピストが現れます。
1) 郡司昌雄
日本人初のプロハープ奏者と考えられます。山口県萩町松本出身。慶応大学出身。その音楽的才能を山田耕筰に見込まれ、ハープはドイツ人タイナーに3週間ほど習い、その後は独学でした。タイナーは関東大震災のため離日、その際に彼のハープを譲り受け、1924年(大正13年)歌舞伎座で行われた日露交歓交響管弦楽演奏会では、ロシアとの合同オケにて胡桃割人形、シェラザードなどを弾いています。また室内楽活動ではトリオモンパルナスを結成し、演奏活動と並びラジオ放送などを行っていました。自分を引き立ててくれた山田耕筰が日本交響楽協会を追われた際には、義を重んじ彼と行動を共にしました。その後日響五重奏団を組織しラジオ放送などでも活躍しました。1926年女流洋画家海老沢すゑ子氏と結婚しましたが翌年1月、結核により28歳で夭折。
トリオ・モンパルナス チェロ:松原与輔 フルート:岡村雅夫 ハープ:郡司昌雄
2) 篠野静江(篠野静枝)
日本女子大出身、ベルリン留学3年、ピアノをマリア・ベンダー、ハープをマックス・ザールに師事。ピアニストとして優れた腕を持つとともにハーピストとして活躍。1926年(大正15年)帰国に際し、当時5000円と言われるハープを持ち帰り話題となりました。帝国ホテルにて結成されたばかりの新響とともに帰国演奏会を催し、ピアノソリストとしてベートーベンのピアノ協奏曲2番、ハーピストとしてドビュッシーの小組曲、アッセルマンの小品などを披露しています。また新響の第9回定期公演でハープを弾いています。新響に加入する予定でしたが何故か見送られ、そのせいで、女性が交響楽団員として活躍するのは後のこと(いわゆるコロナ事件後)となりました。フルート宮田清蔵、チェロ大村卯七とともにトリオフロッシュ(支配人:長谷川忠雄)を結成。
3) 太田綾子(荻野綾子)
1916年(大正5年)東京音楽学校本科声楽部卒業1919年研修科修了。声楽をペツオルト、クロワザ、ハープをミシュリヌ・カーン(Micheline
Kahn)に師事。1925年フランスに留学、1927年に帰国し、ソプラノ歌手として活躍。日本人作曲家の作品を取り上げ、また現代フランス歌曲を紹介し、作曲・声楽分野に衝撃を与えました。1937年国際現代音楽際(パリ)に出演。1939年まで東京音楽学校講師。
声楽家としての名声故、ハーピストとして語られることはありませんが、確かな技量を持ち、新響が「牧神の午後への前奏曲」を定期演奏会で取り上げるにあたり、「彼女の帰国を待って」演奏会が組まれました。オーケストラプレイヤーばかりではなく世界的フルート奏者マルセル・モイーズに師事した深尾須磨子とのデュオコンサートを開き、牛山充氏に絶賛されるなど、ハーピストとしての未来も嘱望されていました。教育家としても活発に行動し、ソシエテ・フォンテェーヌを結成、地方にも積極的に出かけ、合唱会などを催しました。人に好かれる性格だったらしく、当時の音楽雑誌などでも大変な人気ものでありました。また、彼女のハープの師ミシュリヌ・カーンのご子息は、彼女の死後70年経った現在(2006年)でも彼女のエピソードを覚えており、人間的な魅力のある人物であったことを語ってくれました。1932年シャンゼリゼ座で行われたパドルウ管弦楽団*の演奏会はラヴェルの指揮でピアノ協奏曲(マルグリット・ロン独奏)とボレロが演奏され、同じ演奏会で荻野綾子の独唱により橋本国彦作曲の「舞」が演奏されています。つまりラヴェルと同じ舞台に立った数少ない日本人でした。親友であった深尾須磨子の影響を受けてか、文才にも長けており、詩作やエッセイをいくつも残していますが、系統立てた評価はなされてはいません。1944年10月、千葉にて死去。享年47歳。死因は中耳炎から併発した敗血症とも、半年後に亡くなった夫、太田太郎氏も患った肺結核とも言われています。
注*Orchestre Lamoureuxのことと思われます。
4) 加藤敬子
大日本音楽協会会員、女子学習院出身。愛媛県大洲市の名誉市民である元貴族院議員加藤泰通子爵夫人です。荻野綾子につきハープを学びました。その後、新交響楽団に出演して以来しばしば同楽団の一員として出演しています。現在の表参道ヒルズの向かい(陰田町)に居を構えておりましたが、戦後、愛媛に居を移してからの活動は不明であり、情報を求めたく思います。師である荻野綾子が声楽活動に集中する中、演奏会や放送でハープ演奏を普及させました。1935年の新響メンバー表には団員として記載されています。藝大前身の東京音楽学校で、「ファウストの業罰」や「指輪」、「交響曲7番(マーラー)」を演奏した際には、後年指揮者として有名になる山田和男とともに出演。日本人ハーピストの先駆けとして活躍しましたが、現在では殆ど評価がなされていないのは非常に残念です。ご子息の晴同氏もハーピストで、親子のハープデュオで度々ラジオに出演しています。
5) 渡邊順
1938年渡邊順ハープ楽団第一回演奏会を開催。昭和初期に成立した東京放送管弦楽団メンバーです。母、篠からハープを学びました。良家の出身でしたが、遊びで財産を浪費させた、と自ら語っています。ここには記せませんが、彼を知る人物からも、その豪快な武勇伝が伝えられています。音に対する情熱は人一倍で、テレビ番組「笑点」のオープニングに挿入される鳴り物は彼の考案です。
6) 山田和男
指揮者として高名ですが、戦前はハーピストとしても活躍しました。1940年に大阪歌舞伎座で行われた、紀元二千六百年記念音楽祭では、上述の渡邊氏とともにハーピストとして演奏に参加しています。生前に「マーラーの交響曲の日本初演はほとんどボクがハープを弾いたんだよ」と自慢しているのを聞いたことがあります。また昭和50年ころに日本指揮者協会が指揮者だけでオーケストラを作ってパーティーで披露したときにはハープで参加していました。
その他
日本人がオーケストラで最初にハープを演奏したのは1914年東京帝劇で山田耕筰の音詩「曼荼羅の華」が演奏された時と考えられます。山田耕筰はグランドハープを入手するため東奔西走し、当時の撃墜王で東京音楽学校の授業を受けたこともあるバロン滋野こと滋野清武にフランスから持ち帰らせました。演奏者は斉藤佳三とあります。1924年の日露交歓交響管弦楽演奏会では、牧神の午後への前奏曲も演奏される予定でしたが、ロシア側のハープ奏者ドワルヂニーナの来日がかなわず演奏はされていません。1925年には、陸軍戸山学校の大沼哲作曲による「マルシェ・オマージュ」が、ケーニッヒ指揮、新交響楽団により初演されていますが、この曲にはハープパートがあります。1926年には海軍が4200円をかけてハープをドイツから購入し、新交響楽団ビオラのトップ瀧川廣が演奏を受け持ちました。このハープは関東大震災にも被災を免れたと記録がありますが、その後はどのようになったか不明です。関西では1933年宝塚交響楽団95回定期演奏会に、指揮者でもある高木和夫がハーピストとして参加と記録があり、それ以前から演奏がなされていたと思われます。来日したハーピストではスペインのソランジェ・レニが1937年4月に来日し、「相当な名手」と評され、当時のハーピストにレッスンを授けている写真が現存しています。また同8月アウリア・セイレ、9月にはマウリッツアが来日しています。特にマウリッツアは2万5千円(宇宙服のような姿で撮影されているチラシには5萬円と記載されています)もする18世紀のアイルランドハープを携え来日し、話題を呼びました。
戦前のオーケストラ演奏会ではハープが登場することは珍しいことで、複数の琴にて代用の研究もなされていました。スコアにハープがあってもハープ抜きで演奏したり、ピアノにて代用されるのは常でありました。長くNHK交響楽団のファゴット奏者を務めた山畑馨さんからは、東京音楽学校で幻想交響曲を演奏したが、ハープと一緒に演奏した記憶はない、多分ピアノで代奏していた、と伺っています。
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