その3【1935年の名簿から】

海軍軍楽隊のご出身で、長くNHK交響楽団のファゴット奏者を勤められた山畑馨さんのご好意で、日本におけるハープ愛好者の集まりである「日本アルプ協会1935年度名簿」を見る機会がありました。1935年というと昭和10年にあたり、世界に冠たる一等国という自負と共に、滝川事件(京大教授への思想的な弾圧)や天皇機関説事件など、後の戦争に繋がる思想統制が始まりかけていた頃でした。戦前のハープ協会はこのような時期に発足し、1937年以降、当時のハープ演奏家を集めた主催演奏会を開いていました。

名簿はB4版の白色の紙にガリ版刷りのシンプルなものです。正式名称は、流麗な筆跡のフランス語でLa Societe de la Harpe ou Nipponと記され、日本語の名称もフランス風に「日本アルプ協会」となっていました。日本の最初期ハーピストには篠野静江のようにドイツで音楽教育を受けた人もいますが、フランスからの情報が比較的多かったことが想像されます。協会員は30名で、東京以外では8名が関西、1名が外国在住です。協会の目的を「アルプを研究せられる人々の親睦団体」とし、雨田光平*、岩崎雅通両人が発起人です。創立は1935年3月31日です。1935年には3回の会合が開かれていますが、萬平ホテル、銀座のラスキン文庫喫茶部、同じく銀座の風月堂で会合を開いています。この会合場所から察すると、とてもハイカラな集団だったと思われます。洋行の経験者が多かったのでしょう。萬平ホテル、風月堂は現在でも有名な老舗ですので説明も要りませんが、ラスキン文庫とは、真珠で有名な御木本がイギリスの思想家ジョン・ラスキン研究のために設立した研究機関で、当時は喫茶部を併設しサンドイッチなどを提供していたそうです。現在も図書館が築地本願寺の隣にあります。
 *注 雨田光平 彫刻家で箏曲京極流二代目宗家。1925年に渡仏しマルセル・トゥルニエにハープを師事。
   持ち帰ったアイリッシュ・ハープが現在の青山ハープの基となりました。ハープソロ曲「初夏草心抄」を作曲。

その当時、どのような人々がハープに親しんでいたのでしょうか。名簿には太田綾子篠野静江加藤敬子など当時を代表するハープ演奏家が名前を連ねているのと同時に、軍人の名前もありました。以前に演奏家のお話をさせて頂きましたので、今回は軍人とハープについてお話させて頂きます。

現在各国軍隊には兵士の士気高揚、デモンストレーション用に軍楽隊があり、日本でも1871年に創設されています。軍楽隊というと、芸術性よりも実用性を重視した吹奏楽団の印象がありますが、昭和10年頃の日本の軍楽隊にはハープを含む弦楽器パートもありました。海軍では4200円で購入したハープを、後のNHK交響楽団ビオラ奏者の瀧川廣が演奏していました。また当時の写真でもハープが誇らしげに写っています。人材育成も盛んに行われ、陸軍は新宿の戸山、海軍は神奈川の横須賀に音楽専門教育を行う機関を有し、芸術性の高い演奏者育成を誇っていました。後に陸軍第四師団軍楽隊は大阪市音楽隊(現・大阪市音楽団)として改組されたり、戦後には数多くの人材がプロオーケストラに加わっていることからも、軍楽隊の人材のレベルの高さが伺えます。

アルプ協会名簿に、陸軍所属の協会員として大沼哲の名前がありました。大沼は戸山学校を主席で卒業した俊英で、陸軍戸山学校軍楽隊14代隊長です。軍楽隊では初の佐官(最終官位は少佐)となりました。吹奏楽の経験がある方は行進曲「立派な青年」を一度は演奏したことがあるのではないでしょうか。ライバルの山田耕筰が、交響曲「かちどきと平和」以降、多くの時間を歌曲に費やしたのとは対照的に、大沼は交響曲「平和」発表後も、器楽曲を中心に作曲を行いました。ご子息の手記では6曲の交響曲を作曲したと言われています。交響曲「平和」は1923年9月初演されましたが、9月1日に起こった関東大震災により、初演時に既に楽譜はすべて焼失していました。しかし30分以上の大曲を全員暗譜で演奏を行った、といいますから当時の訓練の厳しさが伺えます。彼は諸外国の賓客に、日本にも優れた作曲家がいることを認識して貰う目的で、当時の宮内省から作曲依頼が来るほどの腕の持ち主で、昭和天皇が欧州視察を終えて、帰国の際に作曲された「奉祝前奏曲」は、日本で最初に作曲されたフランス式吹奏楽曲として世界レベルにあると、絶賛されています。現在でも陸上自衛隊の演奏で聞くことができますが、安易なオリエンタリズムに流されず、モダンな感覚に溢れています。しかしながら、彼の作品の多くは軍部上部の方針で、演奏されず埋もれてしまいました。当時は自作演奏のためには軍上部の許可が必要でした。演奏許可を申請したのですが、許可は下りず、申請と同時に軍に提出した多くの自作も、散逸してしまったようです。この背景には、意図したことではないとは言え、ある元楽長の面子を潰してしまったことが挙げられます。またフランス留学でダンディに師事し、ラヴェルとも面識があった大沼は、当時の楽壇で、フランス音楽のオーソリティと見なされていました。しかし軍靴の音が増す中、音楽は戦意高揚を第一とする軍部から見ると、彼の作品は曖昧な響きの作品と烙印を押されてしまったようです。彼が自分でハープを演奏したかどうかは文献が見出せず不明ですが、多分演奏はせず、作曲家として、ハープの特色を研究しようと考えてアルプ協会に入会したものと推測されます。フランス音楽のオーソリティとしてはハープの音色は作品推敲に欠かせないものだったのでしょう。現存する彼の管弦楽作品「マルシェ・オマージュ」(1925年、ケーニッヒ指揮、新響にて初演)にハープが用いられています。この作品は、山田耕筰の音詩「曼荼羅の花」に続く、ハープを用いた日本人作曲の純器楽曲のひとつと考えられます。
更に名簿には陸軍の佐藤某、筒井某の名前が記載されています。陸軍軍楽隊で佐藤と言えば、戦後の吹奏楽コンクール課題曲「学園序曲」(豊島区立第十中学校がエルザの大聖堂への行列を演奏し、優勝したときの課題曲です)で有名な佐藤長助の名前があがります。他にも佐藤と言う姓の軍人作曲家が陸軍にいた可能性はありますが、実績からして佐藤長助であると思って間違いないでしょう。名簿には、両名は「クロマチックハープ」を利用している、と注意書きがあります。クロマチックハープは、ハープの弦を半音階に張ったハープで、演奏困難とされています。名簿にはこの演奏困難なクロマチックハープを利用している人が3名いました。現在は楽器自体殆どみかけませんが、当時はペダルハープとともに利用されていたと思われます。

一方海軍はどうでしょうか。アルプ協会の名簿には海軍出身の江口夜詩の名前が見えます。彼が作曲した有名な軍歌「月月火水木金金」は皆さんが一度は耳にしたことがあると思われます。「朝だ、夜明けだ、潮の息吹」で始まるこの歌は、彼の艦隊勤務経験の結露でしょう。彼は軍歌、流行歌以外にも、「連合艦隊行進曲」「千代田城を仰ぎて」など純器楽曲を沢山作曲しています。また、描写曲「爆撃」、大序曲「挙国の歓喜」は数少ない行進曲以外の吹奏楽曲です。彼も自分でハープを演奏していたとは思われませんが、大沼哲と同様、作曲のためにハープの情報が必要だったと思われます。

1935年当時は、日本を取り巻く国際状況が悪化するにつれ、国策として邦人作曲家による作品が求められつつある時代で、軍楽隊の作曲関係者はその有力な候補として考えられていました。しかし彼らの多くが戦地に赴き、ハープ作品を残すことは殆どありませんでした。名簿は日本人によるハープ楽曲の作曲が始まろうとする寸前の状況が反映されていたものと考えられます。