C. Ph. E. Bach カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(1714-1789)
大バッハといわれたヨハン・セバスチャン・バッハの息子です。クラヴィアのためのソナタを数多く作り、古典派のソナタ形式の基礎を築きました。彼の「ハープ・ソナタ」(1762年)はオリジナルのハープ作品としては最も古いもののひとつですが、原本は「ハープのためのソロ」という題名でメロディーとバス・ラインの和音が添えられている小品集です。これを組み合わせてソナタとして1940年ころにニーマンが刊行し、その後ツィンゲルやグランジャニー、ヴァイデンザウルなどがそれぞれ編曲しています。小品を組み合わせてソナタにしているため、版によって楽章の順が違ったり、調が違ったりします。従って題名もツィンゲル版では「Sonata for Harp」でなく「Solo for Harp」となっています。

Robert Nicolas Charles Bochsa ロベール・ニコラ・シャルル・ボクサ(1789-1856)
 チェコ系フランス人として生まれ、1806年にパリ音楽院に入学し、作曲とハープを学んびました。1813年にルイ18世の宮廷チャペルのハーピストに任命されましたが1817年偽造、窃盗、重婚の三重の罪に問われてイギリスに逃亡し、ロンドンでハープの名手として鳴らしました。王立音楽院の創立にともない初代のハープ科教授に任命されましたが、1827年にスキャンダルが元で辞任しました。1939年に司祭の妻、アン・リヴィエールと駆け落ちし(「ホーム・スウィート・ホームの作曲者ヘンリー・ビショップ卿の妻で声楽家のアン・ビショップという説もある)、もう立ち入ることのできないフランスとイギリスを除いたヨーロッパ各地から中近東、アメリカ、南米と二人で世界演奏旅行に出向いているうちに1856年1月6日、オーストラリアのシドニーに没しました。彼はハープを新しい技法で用い、ベル・カントに近い効果をハープから引き出したといわれます。8曲のオペラや5曲のバレー音楽の他に360曲におよぶハープのための作品を残しましたが、今でも練習曲集は使われています。

Francois Boieldieu フランソワ・ボアエルデュー(1775-1834)
 フランスに生まれ、18世紀末のフランスのオペラコミックを代表する作曲家で、またパリ音楽院のピアノ科教授です。彼は現在のペダルハープを作ったセバスチャン・エラールと親交があり、1795年に「ハープ協奏曲 ハ長調」を作曲しました。

Henri Busser アンリ・ビュッセー(1872-1973)
 フランスの長寿王として知られた20世紀の作曲家です。1893年にローマ大賞を受け、ドビュッシーの知遇を得て彼のオペラなどを多く指揮しています。パリ音楽院の作曲家教授にもなり、いろいろなジャンルの曲を残しました。主なハープ作品「演奏会用小品」「バラード」「プレリュードとダンス」「日本の旋律による即興曲」

Andre Caplet アンドレ・カプレ(1878-1925)
 1901年にローマ大賞を受賞し、ドビュッシーの親友としても有名。指揮者としてボストンやロンドンで活躍しました。ハープの独奏曲とした「フランス風」と「スペイン風」と題された「2つのディヴェルティスマン」(1924年)、室内楽曲では「(エドガー・アラン・ポオの怪奇な短編小説『赤い死の仮面』による)ハープと弦楽四重奏のための幻想的な物語」があります。この曲は1909年にクロマティックハープのために書かれ、後に1924年に現在のペダルハープのために書き直されたものです。カプレは第一次世界大戦に歩兵軍曹として従軍し、負傷と毒ガスのために身体をこわして45歳で亡くなりました。

Jean-Baptiste Cardon ジャン=パティスト・カルドン(1760頃-1802)
 18世紀のロココ様式の時代のフランスのハーピストで、現在「ハープソナタ」が数曲が残されています。また1784にハープ演奏技法という著作を出版しています。

Jean Michel Damase ジャン・ミッシェル・ダマーズ(1928-)
 フランスのボルドーで生まれ、パリのエコール・ノルマルで学んだ後、パリ音楽院で研鑽を積み、15歳でピアノで一等賞を、19歳で作曲のローマ大賞を受けています。母親(ミシュリーヌ・カーン)がハーピストだった影響からか、ハープの作品が多く、フルートのランパルとハープのラスキーヌに捧げられた「フルートとハープのためのソナタ」、「協奏曲」、「コンチェルティーノ」、ソロ曲に「シチリア風変奏」「演奏会用練習曲」「序奏とトッカータ」「サラバンド」などがあります。

Claude Debussy クロード・ドビュッシー(1826-1918)
 19世紀末からのフランス印象派の中心人物で、ハープのためのソロ曲はありませんが、室内楽の傑作「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」、「ハープと弦楽のための神聖な舞曲と世俗的な舞曲」があります。ピアノ曲の「アラベスク」「亜麻色の髪の乙女」「夢」「小舟にて」なども編曲されてよく演奏されます。

Jan Ladislav Dussek ヤン・ラディスラフ・デュセック(1760-1812)
 ボヘミヤ(今のチェコ)の作曲家で、やはり音楽家の父から音楽を学び、主にパリやロンドンでピアニストとして活躍し、多くのピアノ曲を作曲しましたが。彼の時代はちょうどペダルハープがシングルアクションからダブルアクションに発達した時期で、彼の母、ヴェロニカと彼の妻、ソフィア・コリが優れたハーピストだったことから、作品2と作品34の「ハープのためのソナタ」数曲と「ソナチネ」6曲、「ハープ協奏曲」4曲などを残しました。

Gabriel Faure ガブリエル・フォーレ(1845-1924)
 フォーレは1896年にパリ音楽院の作曲科教授となり、1905年から1920年まで同院長を勤めました。作品は繊細と洗練をきわめ、フランス人でなくてはじゅうぶん理解できないといわれるほどフランス的な作曲家です。ハープの作品は「即興曲 Op.86 (1904年、友人のアッセルマンに献呈)」と「塔の中の王妃 Op.110 (1918年)」の二曲あります。即興曲は名ハーピストのアッセルマンに捧げられ、後にピアノのための即興曲に書き改められています。編曲ものではフルートとハープの「子守歌」や「シチリアーノ」がよく演奏されます。

Alberto Ginastera アルベルト・ヒナステラ(1916-1983)
 アルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、市内の音楽院で勉強してから1943年に国家大賞を受け、奨学金によって終戦直後のアメリカへ赴き、1971年からはスイスで暮らして、おびただしい作品を残しました。「ハープ協奏曲」 Op.25は1958年にワシントンで催された第1回アメリカ大陸音楽祭で弾くため、フィラデルフィア管弦楽団のハープ奏者のエドナ・フィリップスに依頼されました。しかし完成したのはフィリップスが引退した1965年で、結局ニカノール・ザバレタとフィラデルフィア管弦楽団に初演されました。

Reinhold Gliere レインゴルド・グリエール(1875-1956)
 1900年にモスクワ音楽院を卒業してから教育者として、社会主義革命後は役人としてソヴィエト(現ロシア)音楽文化の普及と発展のために貢献しました。「ハープ協奏曲 変ホ長調 Op.74」(1939)、ソロ曲に「即興曲」があります。

Mikhail Ivanovotch Glinla ミハイル・イワノヴィッチ・グリンカ(1804-1857)
 グリンカは、まだロシアに音楽学校がない時代に音楽家を志し、モスクワでアイルランドの音楽家ジョン・フィールドに師事して後にイタリアで勉強しました。歌劇「ルスランとリュドミラ」などを作曲してロシア国民楽派の父と呼ばれました。ハープの独奏曲として「モーツァルトの主題による変奏曲」(1822年)、「ノクターン」があります。

Felix Godfroid フェリックス・ゴッドフロア(1818-1897)
 ベルギーに生まれ、パリでナーデルマンやパリッシュ=アルバースに学び、ハープの名手としてヨーロッパはもとより、中近東諸国まで演奏旅行をしながら技巧的で親しみやすい小品を多く残しました。「演奏会用練習曲」などの技巧的作品が残されています。

Marcel Grandjany マルセル・グランジャニー(1891-1975)
 パリ音楽院でルニエにハープを学び、13歳でパリ音楽院で一等賞。その後演奏活動そ続けながらフォンテンブローで教師を勤め、1936年に渡米し、1938年からニューヨークのジュリアードやモントリオールでハープ科の教授を勤め、ニューヨークで没した。作品に「組曲 子供の時間」「ラプソディー」など多数のソロ曲と、ハープと弦楽(オルガン)のための「アリア」などがあります。

Jesus Guridi ヘスース・グリーディ(1886-1961)
 スペインはバスク地方のビトーリアに生まれ、マドリード音楽院で作曲とオルガンを学んで、後に同音楽院の院長を勤めてマドリードで亡くなりました。彼はバスク地方の民謡を集めて研究しました。ハープの独奏曲として「古いソルツィーコ」があります。この曲もバスク地方の8分の5という特殊な拍子をもったソルツィーコという舞曲にもとずいています。

Georg Friedrich Haendel ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(1685-1759)
 ドイツに生まれ、晩年はイギリスで活躍したバロック時代の最後に位置する作曲家です。ハープ独奏曲としては「ピアノまたはハープのための主題と変奏」だけですが、「パッサカリア」や「シャコンヌ」もそのままハープで演奏されます。それに「ハープ協奏曲 ロ短調」が有名ですが、これはオルガン協奏曲 Op.4 6曲の内の第6番で、これだけはオリジナルで「ハープまたはチェンバロまたはオルガンのための協奏曲」となっています。

Alphonse Hasselmans アルフォンス・アッセルマン(1845-1912)
 ベルギーのリエージュに生まれ、パリでハープを学んで1903年にフランスに帰化して、フランスのハープ界に黄金時代を築いたハーピストの一人です。1884年からパリ音楽院の教授として、トゥルニエを始め多くの逸材を輩出しています。「ジターナ」「ギターレ」などの作品を50曲以上を残し、その多くは「泉」などの練習曲です。他に「鬼火」「オリエンタール」「小さなワルツ」「バラード」「子守唄」など。

Pierick Houdy ピエリック・ウーディ(1929- )
 フランスに生まれ、10歳でパリ音楽院に入学してミヨー、メシアンに作曲を学び、ローマ大賞を受けています。後にカナダに移住してケベック市の音楽院で作曲科の教授を勤めています。彼の妻はハーピストで、彼女のために1955年に「ソナタ」を書いています。

Jacques Ibert ジャック・イベール(1890-1962)
 パリ音楽院の演劇科に入学し、後に作曲科に転向した異才。音楽院の途中で第一次世界大戦のために海軍士官として従軍し、終戦後に復学して1919年にローマ大賞を受とって認められた。「霊感1%と努力99%」という厳しい創作態度でいろいろな分野に優れた作品を残し、人格的にも優れ、学士院会員にも選ばれた。
「スケルツェット」「ファンタジー」「バラード」などの「6つの小品」ハーピストの娘のために「トリオ」、「フルートとハープのための間奏曲」

アラム・ハチャトゥリアン(1903-1978)
ソヴィエト(現ロシア)の作曲家で、ハープのために「オリエンタル・ダンスとトッカータ」があります。

Johann-Baptiste Krumpholz ヨハン・バティスト・クルムホルツ(1742-1790)
 プラハ生まれのボヘミア人ですが、ウィーンでハイドンの父親にハープを学び、父親がパリで楽隊の隊長をしていた関係で後にパリでハーピストとして活躍しました。ハープソロやフルートとハープのソナタを50曲あまりと前奏曲を12曲、協奏曲を6曲残しました。またハープの製造も手がけ、強弱を使い分ける2種類のペダルを発明し、またエラールの相談相手として現在のペダルハープ。最後はやはり優れたハーピストであった妻の不貞と駆け落ちに悲観してセーヌ川に身を投げて悲惨な死をとげました。

Lily Laskine リリー・ラスキーヌ(1893-1988)
1893年3月21日パリ生まれ。アッセルマンの師事して12歳でパリ音楽院一等賞を得ました。長らくラムルー管弦楽団のハーピストを勤め、同時に世界各地で独奏者としてトスカニーニ、クーセヴィツキー、ミュンシュといった巨匠の指揮するオーケストラと共演しました。1948年よりパリ音楽院の教授を勤め、多くのハーピストを育てました。

Ami Maayani アミ・マヤーニ(1936- )
 イスラエルに生まれ、エルサレムの音楽アカデミーで音楽を、さらに都市工学や哲学の学位も持つ作曲家です。イスラエル作曲家協会の会長も勤めイスラエルの中心人物として活動しています。ヨーロッパ音楽の伝統にアラブ音楽を取り入れた特特の作風を持っています。ハープのソロ曲が多く、「ソナタ」(1979年)、「オリエンタル風トッカータ」などがあります。

W. A. Mozart ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
 ハープの作品としては有名な「フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299」一曲しか書かれていません。この協奏曲はパリのドゥ・ギーヌ公爵の父と娘のために書かれました。アドリアン=ルイ・ドゥ・ボニエール公爵がフルートの名手であり、その娘がハープを弾いていました。その娘の結婚式にあたってこの組み合わせの協奏曲を依頼されて1778年4月に完成しました。当時のフルートは音程があまりよくなく、モーツァルトは嫌っていましたし、ハープはまだシングルアクションで演奏上かなり制約があったのですが現在でもハープ協奏曲の代表曲といえる名曲となりました。

Francois Joseph Naderman フランソワ・ジョセフ・ナーデルマン(1773-1835)
 ハープを始めとする弦楽器製作、演奏者の家系に生まれ、ベルサイユ宮殿の礼拝堂附きのハーピスト、作曲家として活躍しました。彼の父、ジャン・アンリはルイ16世の王妃、マリー・アントワネットの愛用した美しい装飾入りハープを製作しました。1815年にはボクサの後任としてルイ18世の宮廷ハープ奏者となり、1825年にパリ音楽院の最初のハープ科教授となり、数々のハープ教則本や作品を残しました。「七つのソナチネ」が特に有名です。

Charles Oberthur チャールズ・オーバーテュール(1819-1895)
 ドイツのミュンヘンにカール・オーバーテュールとして生まれ、1844年にイギリスに渡ってハーピストおよび教師として活躍しました。イギリスに帰化して名前をチャールズに改め、ロンドンで亡くなりました。ハープの独奏曲に「シルフ(空気の精)」があります。この曲は当時、イタリアの舞踏家マリア・タリオーニ(1830-1891)が振り付けをして踊り、評判になりました。

Elias Parish-Alvars イライアス・パリッシュ=アルバース(1808-1849)
 イギリスのドヴァンシャー州に生まれ、ロンドンでディヅィに、パリでボクサにハープを学びました。1847年にウィーンで宮廷のハープ奏者を勤め、ウィーンで亡くなりました。ベルリオーズは彼を「ハープのリスト」と言って賞賛しました。ハープの独奏曲を80曲ほど残しました。「序奏、カデンツァとロンド」「マンドリン」「セレナード」など百曲以上に及ぶといわれるソロ曲のほか、「ハープ協奏曲 ト短調 Op.8」、「小協奏曲 Op.34」「二台のハープのための小協奏曲 Op.91」もあります。

Gabriel Pierne ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)
 ピエルネはパリ音楽院でフランクにオルガンを、マスネーに作曲を学び、ピアノ、オルガン、作曲で一等賞をとり、19歳でローマ大賞を得て、後にフランクの後任として聖クロティルド寺院のオルガニストとなり、その後1903年からコンセール・コロンヌの副指揮者、1910年から32年までコロンヌ管弦楽団の指揮者を勤め、名指揮者としてならすかたわら、パリ音楽院の要職にも就任しました。ハープ曲はパリ音楽院のコンクール用に書かれた「即興奇奏曲 Op.9 (1897年)と「ハープと管弦楽のための小協奏曲 Op.39(1901年)、「フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとハープのための自由な変奏とフィナーレ Op.51(1932年)の3曲があります。

Maurice Ravel モーリス・ラヴェル(1875-1937)
 スペインで生まれてすぐにフランスに移住した作曲家、ピアニスト。ハープの作品としてはフルート、クラリネット、弦楽四重奏とハープのための「序奏とアレグロ」だけですが、ピアノ曲の「亡き王女のためのパヴァーヌ」もハープでよく演奏されます。

Carl Reinecke カルル・ライネッケ(1824-1910)
 ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者で、「ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182」(1884)があります。またモーツァルトの協奏曲のカデンツァでも有名です。

Henriette Renie アンリエット・ルニエ(1875-1956)
 アッセルマンの元でパリ音楽院でハープと作曲を学び、わずか10歳でハープ科の一等賞を得ました。ハープの名手として世界中のオーケストラと共演し、またパリ音楽院と競いあうハープの学校を設立して、多くのハーピストを育てました。ソロ曲に「いたずら小鬼の踊り」「伝説」「バラード」「エスキス」などの技巧的な曲があります。

Joaquin Rodrigo ホアキン・ロドリーゴ(1901-1999)
 ロドリーゴはギターの名曲「アランフェス協奏曲」を作曲したことでギターの作曲家と思われていますが、実はギターは弾かないし、楽器も持っていないそうです。スペインで生まれ、3歳のときにジフテリアのために失明しましたがスペインの大作曲家ファリャの感化を受けて作曲家を志してパリで学びました。ギターのほかにピアノ、ヴァイオリン、チェロのために協奏曲を作りましたが、1954年に「ハープ協奏曲 コンチェルト・セレナータ」も作曲しました。

Franz Anton Rosetti フランツ・アントン・ロゼッティ(1746-1792)
 ボヘミアの作曲家で、本名はリーズラーというが、ロゼッティとして有名。ドイツに移住して宮廷楽長をつとめ、多くの交響曲や室内楽曲を残しました。「ハープまたはクラヴサンのためのソナタ」を6曲1785年に出版しています。

Albert Rousel アルベール・ルーセル(1869-1937)
 フランスの作曲家。第一次大戦直後の1919年に唯一のハープソロ曲「即興曲 Op.21」を書いています。

Carlos Salzedo カルロス・サルツェド(1885-1961)
 スペイン、バスク系のフランス人で、パリ音楽院でアッセルマンに学んで1901年に一等賞を獲得しています。ヨーロッパで活躍の後、トスカニーニ指揮のメトロポリタン歌劇場の首席ハーピストとしてアメリカに渡り、1924年にはアメリカに帰化しています。そしてジュリアード音楽院とカーティス音楽院で教授を勤め、多くの弟子を育てるかたわらハープの作品を数多く書いています。ハープの機能を知り尽くしたものでなければ書けない曲が多く、さらに新しい演奏法を考えだして可能性を拡げました。代表曲に「古典様式の主題による変奏曲」「夜の歌」「蜃気楼(ミラージュ)」「火花(シンチレーション)」「噴水の戯れ」「バラード」など。

Camille Saint-Saens カミール・サン=サーンス(1835-1921)
 フランスの作曲家で、交響曲の他に協奏的な作品を好み、ピアノ協奏曲を5曲、ヴァイオリン協奏曲を3曲、チェロ協奏曲を2曲と「ハープのための小協奏曲 Op.39」を残しました。ソロ曲では「ハープのための幻想曲 Op.95(1893年)とバイオリンとハープのための幻想曲 Op.124

Louis Spohr ルイ・シュポア(1784-1859)
 ヴァイオリン奏者、指揮者、教育者として19世紀前半のヨーロッパ音楽界の中心的存在として活躍しながら、ヴァイオリン協奏曲、交響曲からオペラまで膨大な数の作品をつくりました。1805年に有名なハーピスト、ドレッテ・シャイドラーと結婚したことで、ハープのためにも何曲か作って二人で演奏しました。ハープ独奏曲として「幻想曲」「(『私はまだ青春時代よ』による)変奏曲」(1807年)の2曲。ヴァイオリンとハープのための「ソナタ」6曲、2つの「幻想曲」、2つの「変奏曲」。「ヴァイオリン、チェロとハープのための三重奏曲」。2つの「ヴァイオリン、ハープと管弦楽のための協奏曲」があります。

Germaine Tailleferre ジェルメーヌ・タイユフェール(1892-1973)
 ミヨーやプーランクなどのフランス6人組の中で唯一の女性作曲家。この6人組を積極的に応援したジャン・コクトーが「耳のマリー・ローランサン」と呼んだ。好奇心が強く、新しい道を探しつつ、彼女の曲はいつも新鮮で機知に富み、フランス音楽の伝統からはずれない。ハープの作品は2曲、若いころに書いた小協奏曲(コンチェルティーノ)と晩年に書いた「ハープのためのソナタ」がある。

John Thomas ジョン・トーマス(1826-1913)
 英国のウェールズで生まれ、王立音楽院でハープを学びました。ハーピストとしてヨーロッパ中で活躍し、1871年から王立音楽院の教授とビクトリア女王付きのハープ奏者として活躍しながら小品や練習曲を多く残しました。「吟遊詩人の故郷への別れ」

Marcel Tournier マルセル・トゥルニエ(1879-1951)
 20世紀前半のハープ界の重鎮。パリ音楽院でハープと作曲を学び、アッセルマンとマルトノの弟子に当たる。1899年にパリ音楽院で一等賞、1909に作曲でローマ賞次席。1912年から1948年までの36年間パリ音楽院ハープ科教授として多くの弟子を育て、ハープの現代的奏法や新しい音色の開発を研究した作品を残した。イマージュ(映像)各3曲からなる4つの曲集(全12曲)で「踊り子ロリータ」などがある。他に「ソナチネ」「ジャズバンド」「偶然の波動」「演奏会用練習曲 朝に」「12の映像」

Heitor Villa-Lobos エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)
 ブラジルの国宝的作曲家。リオデジャネイロで生まれ、父親が彼にチェロを弾かせたかったがまだ小さすぎたので、ギターをチェロのように弓で弾けるように改造して与えました。少年時代にチェロのほかにクラリネット、サキソフォン、ピアノ、ギターを演奏して、民族音楽の宝庫と呼ばれたブラジル東北部のノルデスチを放浪して吸収しまた。1907年にリオへ戻ってから始めて国立音楽学校へ入学しましたが、すでに築かれつつあった彼の個性は古典的な和声法になじまずに数ヵ月でまた奥地へ放浪し、結局すべて独学で師を持ちませんでした。後にパリに出てその強烈な個性で評判となり、アメリカで名声をあげてからブラジルで作曲、指揮、教育などで活躍してブラジルの音楽水準を飛躍的に高めました。おびただしい曲を残しましたが、ハープの作品としてはザバレタに献呈された「ハープ協奏曲」(1953年)と「ギター、フルート、オーボエ、サクソフォン、チェレスタ、ハープのための神秘的六重奏曲」があります。

David Watkins ダヴィッド・ワトキンス(1938-)
 現在も活躍するイギリスのハーピストであり作曲家です。ロンドンの王立音楽院で、後にフランスでルニエにハープを学びました。独奏曲に「小組曲(プレリュード・ノクターン・火の踊り)」、「ダンス組曲」があります。小組曲は1961年にカリフォルニアで行われたアメリカ・ハープ協会の作曲コンクールで一位を受賞した曲です。

Nicanor Zabaleta ニカノール・ザバレタ(1907-1993)
 スペインのバスク地方サン・セバスティアンに生まれ、13歳でマドリッド音楽院を卒業しパリ音楽院でトゥルニエに師事しました。1925年にパリでデビューしてからは、ヨーロッパ、アメリカを中心にソリストとして活躍し、1960年と1962年には来日しています。消音装置といえる8本目のペダルを考案しました。タイユフェール、ヴィラ=ロボスなど、多くの作曲家から作品を献呈されています。自身でも古いスペインの作品を編纂した「スパニッシュ・マスターズ」を出版しています。